2007年2月 9日 (金)

心理療法と因果的思考

岩波書店が出版している講座心理療法第7巻 総編集河合隼雄 「心理療法と因果的思考」という本はたいへんおもしろく興味深く読んだ。

因果的思考とは、原因と結果についての思考。何かが起こり、その結果何が起こったかを考えること。私たちは日常、ごく自然に因果的思考を行っている。原因と結果の連鎖を因果律という。

私たちが経験する出来事は、一見、原因と結果が理解しやすいように思える。しかし、刻々変化する出来事全体の一部を切り取って、原因と結果をコトバで表すことは基本的にむつかしいことだ。逆にそのコトバによって全体を思いめぐらせることも非常にむつかしい作業であるということは、言われて見れば分かる。それはちょうど微分された方程式を見て、私たちが、微分される前の方程式が、分からない部分があるのとおなじようなものだ。あるいは、高次元の世界から低次元の世界に降り立ったとき、もはや人はもとの高次元の世界を見ることは困難であることとそれは似ている。

心理療法において、それらのことで問題が生じたり、あるいは問題を解決したりできるのだという。これは、おもしろい話ではないだろうか?すくなくとも私は興味津々だった。一気に読み進んでいった。

その中に収められている川嵜克哲氏の心理療法において因果律がゆらぐことの意義とその諸形態についてなども一読をぜひお勧めしたい

クライエントの語りの対象そのもの(関係項)より、心理療法では、クライエントとクライエントの語りの対象との関係性の変化が大切であり、クライエントと治療者の関係を触媒にしてそれが実現されると言った意味のことが書かれたあった。

「事故で足を失った人にとって、足は決して戻ってこない。母に捨てられた子供にとって母親は決して戻ってこない。しかし、失った足や、去っていった母親の「意味」は、関係性が変わる事で変わり得る。関係項とは(言葉によって)分節化されることで現れるてくる「意味」であり、分節線の引き方に依存する可変的なものであるからである。」
たいへんむつかしい表現だが、うつくしいと感じた。全体的に長編の詩のようにも見える。

また、将棋に例えて『しかし、治療者が期待する変化は相手の打つ「駒の位置」ではなく、遊戯のルールそのものなのである』という文。関係項としての足、母親ではなく、失った足や、去っていった母親との心の関係性の変化を治療者は期待するという意味。(ここだけ切り取って写しても文の醸し出す雰囲気は伝わらないかもしれない)

あるいは『クライエント・治療者は項として関係性の中で受動的に「動かされる」のである。あたかも将棋の駒を動かしていた当事者たちが、いつのまにか盤上に駒として降り立って動かされるかのように』この文章も印象に残った。

クライエントと治療者が別々のところで人生というトレーニングを積み重ね、そして漸くリングに二人が立ち、激しく打ち合う時、リングの上に二つの実体があるというより、戦うもの同士の力動的な関係性そのものが存在する瞬間があるように見える。その関係性の瞬間がクライエントの対象を見る見方の変化をもたらすそんな風なことではないだろうか。

非常に難しく書かれているが、詩的な雰囲気をかもし出している。そのような散文的でない言語でしか表現できない世界に、心理療法の世界がコミットしている。そのことを垣間見た気がする。統合失調症の人が難しい数学的世界を語るということを聞いたことがある。

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2007年1月26日 (金)

放送大学を卒業、再入学

放送大学を卒業。

ずいぶん長い間このブログを休んでしまった。でも、この間、おかげさまで平成18年1学期、放送大学を無事、卒業できた。平成15年夏、放送大学に3年次編入以来、楽しい勉強の時間を過ごせたことは幸せであった。やってよかったというのが実感である。

最近は試験勉強のためではなく、図書館で心理学関係の専門書をまとめて借りてきて読んでいるが、それらの書物を読みながら、心理学の専門書を読むことができる自分をなにか不思議に思う感覚がある。それは非常に新鮮な感覚だ。自動車の免許を取った後、一人で道路を走ったときの新鮮な感覚、すこし自由で幸福でうれしい感じ・・・。放送大学で生涯学習することはすばらしいと今は素直に思う。ぜひ、もし迷っている人があればお勧めしたいのだが。

30数年前、神戸の街で大学時代を過ごした。海と山に囲まれたあの坂の多い神戸の街の風景と、自分の青春時代を重ね合わせる記憶はかぎりなくなつかしい。工学部機械工学科に入学したが、まったく興味が持てず、哲学、歴史学などの読書とジャズを聴くことに明け暮れた。大学はストライキと学生運動がうるさかったが、それには興味がもてなかった。哲学科に転部し、人生をやり直したいと心底願ったが、「今日ママンが死んだ」で始まるカミユの『異邦人』のムルソーのように、母の突然の死もあり、挫折し、大学を中退した。

その神戸大学の学務課に、放送大学に編入学するため、成績証明を出してくれるようにお願いした。帰ってきた自分の成績は、もっと悪くひどいものと自分で信じていたが、意外にまともであったので驚き、そして、自分の青春に疑問符が浮かんだものだ。心理学を学んだので分かるが、当時の僕は、今なら心理カウンセラーのカウンセリングを必要とするあぶなっかしい精神を抱いて青春を生きていたのだ。そのつらい青春の軌跡の単位を60単位も認めていただき編入学できた。

放送大学の勉強は楽しく、卒業はもう少しあとと思っていたが、124単位を取ると卒業しなければならないルールがあり、今度は強制的に押し出された。だれかの参考になるかも知れないので、近いうちに、取得単位と成績の一覧をこのブログに掲載しようと思っている。放送大学入学時に目標として「認定心理士」の取得を決めたのだが、心理学実験1科目が残っているので再度放送大学に入学することにした。心理学の実験は人気のある科目であり、なかなか希望通りに受講できない。卒業近くの人に優先順位があると聞いて心配になったが、たくさん希望してやっとひとつだけ受講できるようになり、2月に受講する予定である。認定心理士取得の単位は残りは自分では心理学実験だけ(他の分野はかなり余分に取得した)だと思っているので、たぶん今年の夏には取得できるつもりである。

同じ団塊世代で京都大学の仏文を中退し、放送大学で学び、ヨ-ガの先生をしておられる方のホームページになるほどと思った文章があった。、その文章を、今日のおしまいに引用させていただく。

30年前に投げ出した学業の続きに取り組んだのも、修士課程で「ヨーガ・スートラ」を研究したのも、やはり古い宿題の片付けでした。昔読み損なった文学作品をひとつずつ読んでいるのも同様。ボート漕ぎ風に後ろ向きで水を押しつつ背中で進んでいるみたいで、前向きでさっそうと水を掻き分けて進むのとは大違いですが、進んでいることに変わりはないつもり。古い宿題(というより長期取り置きのお楽しみ)は、まだまだ残っていますが、もうそろそろ、新しい宿題もこなさねばなりません』・・・・・・・・・さすがという文章である。そして人間、後片付けは大事だ。

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